第5話


仕事が終わり、俺はファーストフード店でコーヒーを飲んでいた。
なんとなくすぐに帰る気になれず、毎日寄り道をしている。
別に家に帰るのが嫌だと言う訳ではない。
先月、女房から突然
「これからお互いの事を名前で呼ばない?」
と提案された。
去年、娘が高校卒業後地方の会社に就職した為、
家を出たので夫婦二人っきりになったからなのか?
別に断る理由もないのでOKしたが
これが思った以上にハードルが高い事だった。
今まで10年以上「おい!」とか「なぁ!」と呼んでいたのに
今更名前で呼ぶのは照れ臭かった。
何度も挑戦してはみたが、一か月も経つのに未だに呼べていなかった。
それについて女房は責めたりしなかったが、なんとなく俺は
申し訳ない気分になっていた。
そんな訳で家に居ても落ち着かないのである。
今夜こそ呼ばないと・・・・
そんな事を考えていると どんどん憂鬱になる。

「今日って佐藤の日なんだって。」
隣のテーブルに座っていた女子高生の会話が耳に入ってきた。
「佐藤の日? あぁ・・3月10日だから・・」
もう一人の女子高生が言った。
「そうそう友達の友達が言ってたんだけど、佐藤の日には何人かの佐藤さんに
 小さな奇跡が起きるんだって。」
「なにそれ?本当なの?」
「わたし・・佐藤じゃないから分からないけど・・」
「それじゃダメじゃん!」

そう言って女子高生達は大笑いした。

佐藤の日?小さな奇跡?
なんだそれ?!
俺は佐藤だけど今まで、そんな奇跡起こった事無いぞ。
そんな事思っていたら女子高生たちは唐突に話題が変わっていた。

「うちのお父さんとお母さん、仲良し過ぎるのよねぇ・・・」
「それって悪いの?」
「別に悪くは無いけど・・・」
「じゃぁ何で?」
「だって・・いい歳したオジサンとオバサンが名前で呼び合うのって
 気持ち悪くない?」
「何言ってるのよ!あなただっていずれオバサンになるのよ!」
「ならないも〜ん。わたしは永遠の18才なのよ!!」
「それってオバサンになったらオバサンっぽくしろって事?
 だいたいオバサンっぽいどうすれば良いの?」
「わたしがオバサンになったらか・・・考えた事無かった。」
「歳をとってもラブラブでいるお父さんとお母さんって素敵じゃない。」
「まぁねぇ・・でも、自分の父親と母親ってなるとちょっと複雑。」
「それは分かる!」
「でしょ!!」
「でもまぁ・・お互いオバサンになっても名前で呼び合うような
 ラブラブな夫婦を目指しましょ!」
「その前に素敵な彼氏を見つけるのが先でしょ!」
「確かに・・・」

女子高生たちは大笑いしていた。
思わず彼女たちの話を聞き入ってしまった。
歳をとってもラブラブな夫婦は素敵かぁ・・・

ふと時計を見ると結構な時間になっていた。
さて、そろそろ帰るとするか。
今夜こそラブラブな夫婦の最初の一歩を目指すかな・・・なんてね・・・
そんな事を思いながら俺は席を立った。
俺は女子高生たちの横を通って出口に向かった。
ふと彼女たちの足下を見たら今時珍しいルーズソックスを履いていた。
未だに女子高生ってルーズソックス履いてるんだな。
そんな事を思った。
「きっとアキコの旦那になる人は、歳を取っても名前で呼んでくれるでしょうね。」
アキコ?女房と同じ名前だな。
背後の女子高生たちの会話がやけに良く聞こえた。
「どうかしらねぇ・・・ 呼んでくれるの?」
え?!
アキコと呼ばれた子が俺に聞いてるような気がして振り返った。
しかし、女子高生が居た席に誰も居なかった。
???
狐につままれた様な気分だった。
とりあえず俺はファーストフード店を後にした。
そして今夜こそ女房を名前で呼ぼうと決心した。
あの女子高生たちは何者なのか分からないけど、彼女達が後押ししてくれた様な気がしていた。
ただ素面では難しそうなので軽く一杯呑んで帰ることにした。


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